建築時評コラム 
 新連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


 

SYUJI FUNO #2     2021.08.20

丸の内の悲喜劇:超高層建築の本性

 (写真:特記のないものは筆者撮影)

「東京海上ビル」解体

 

丸ビルと新丸ビルの間に埋もれる東京海上日動ビルディング


  前川國男設計の 「東京海上日動ビルディング(旧東京海上ビルディング本館)」(1974年竣工、25階建)が解体されるというニュースが流れたのは2021年5月初旬のことであった(『毎日新聞』2021年5月8日)。ひと月ほどして、近代建築の保存に奔走する 松隈洋さん(京都工業繊維大学教授、元前川建築設計事務所所員)から 「東京海上ビルディングを愛し、その存続を願う会」(発起人代表 奥村珪一)の趣意書とともに「設計を担当した前川建築設計事務所の元所員を中心に、広くメッセージを寄せていただく活動を始めることになりました」というメールをもらった。会の事務局長は日本建築協会会長も務めた大宇根弘司さんである。
 
 趣意書(※1)には、前川建築設計事務所と新ビルの設計者である三菱地所設計及び東京海上日動火災保険との話し合いの経緯も含めて、その存続がほぼ不可能である流れ、にもかかわらず存続を願う熱い思いとその理由が縷々述べられている。
「東京海上ビル」の建設をめぐっては「美観論争」と呼ばれる激しい議論があった。この「美観論争」が建築界にしこりのように残ってきたのは,超高層建築を推進する側に、建築界の「良心」とされてきた前川國男がいたことである(※2) 。その前川國男がその信念をかけて悪戦苦闘の末に実現させた建築が解体され、さらに高い超高層ビルに建替えられるのは悲喜劇である。
 

東京海上日動ビルディングの公開空地


 松隈さんのメールからしばらくして、 「世界貿易センタービル」(163m、40階、1970、日建設計、武藤構造力学研究所)が解体されるというニュースが流れた(『朝日新聞』6月30日)。翌年 「京王プラザビル」(179m、47階、1971、日本設計)にその座を奪われるが、竣工当時、日本最初の超高層建築である「 霞が関ビルディング」(1968年竣工、36階建、147m、武藤清・池田武邦・山下寿郎)を超えて日本一となった第二の超高層ビルである。地上46階建高さ235mのビルに建て替えられるという(2027年竣工予定)。
 
 『朝日新聞』記事は、サラリーマンが10~20坪の小さな庭付きの家に暮らすそんな街がガラッと変わった、ある意味では「怖いビル」だったが、「やっぱりなくなるのは寂しい」という地元商店主の声を伝えるが、ビルの運営会社は、羽田
空港と直結する新・浜松町駅と連結して最新鋭のビルに建替えてビルの競争力を維持したいのだという。超高層ビルが解体される時代の到来である。
 

Tokyo Torch

 
 全て予定通りというべきか、丸の内を我が庭としてきた地主である三菱地所がTokyo Torch(2027年竣工予定)とネーミングする日本で最も高い超高層ビルの建設を社長自ら発表したのもつい最近である(プレス発表は2020年9月 )(※3)。62階建、高さ390m、「あべのハルカス」(300m、60階、2014、竹中工務店、ペリ・クラーク・ペリ・アーキテクツ)を抜くのだという (※4)。コロナ禍の最中、「東京のトーチ(松明)」として、さらに高密度の街づくりを目指す、という無神経、その本性に唖然とするばかりである。
 
 丸の内に蝟集するのは日本を代表する大企業の本社であり、既に30万人が毎日通うホットスポットである。30万人というのは、東京で言えば中野区、豊島区の全人口に匹敵する。その大半は今テレワークを率先している企業ばかりであろう。そこに3万人の街を新たにつくり出そうというのである。聖火リレーのトーチで思いついたのかもしれないけれど、さらに半世紀後には、東京オリンピック2020の「無残」とともに記憶されることになるのではないか。
 
 設計は三菱地所設計、常盤橋プロジェクト室長・松田吉春、頂部デザインアドバイザー・藤本壮介、低層部デザインアドバイザー・永山祐子、広場デザインアドバイザー・福岡孝則が担当、永山提案によると地上60mの高さに数キロにわたる散歩道ができる。銭湯発祥の地ともいわれる常盤橋ゆかりの温浴施設も設けられるという。
 

美観論争

 
 Tokyo Torchの「常盤橋タワー」が先行オープン(7月21日)するというので、久しぶりに丸の内を歩いた。この半世紀の丸の内の興亡が走馬灯のように頭に浮かんだ。
 
 美観論争については『景観の作法 殺風景の日本』(京都大学学術出版会、2015)で詳述している。ことの発端は1963年に遡る。この年、建築基準法(1950年制定)の前身となる市街地建築物法(1919年制定)によって決められてきた建物の高さを百尺(31メートル)以内とする規定が撤廃されるのである。31メートルというとせいぜい10階建ての高さで今では珍しくもなんでもないが、半世紀前は、31メートルを超えた建物を「超高層」建築と言った。
 
 東京オリンピックの興奮さめやらぬ1965年1月に設計依頼を受けた前川國男の案は、地上32階、高さ130mの「超高層」建築であった。高さ制限から容積制限へ移行したことを踏まえ、超高層化によって,敷地の3分の2を公共広場として開放するというねらいをもっていた。先の趣意書は、前川國男のこの思いを再掲している。この手法は、後の「総合設計制度」 (※5)に基づく「公開空地」の先駆けとなるが、この総合設計制度は、日本の都市景観を大きく変えてしまう動因ともなる。
 
 前川案に対して、「皇居を見下ろすビルは美観上認めない」という判断をしたのが、美濃部亮吉(1904~1984)都知事 (※6)である。そして、時の佐藤栄作首相が「皇居を直接見下ろすようなビルは「不敬」に当る。国民感情からしても好ましくない」と発言、政治問題化したのである。その後の経緯は省くが、「皇居を見下ろす」という政治的問題を除いてみると、丸の内美観論争の顛末には,その後全国各地で勃発した景観論争の構図をほぼそっくりそのままみることができる。すなわち、高層建築の計画提案,高層化反対のキャンペーン、条例の制定、適法の確認、高さ低減(階数削減)による決着というパターンである。
 
 この時、高さがより厳しく制限されたとすれば、丸の内の景観は現在とは異なった筈である。
 

マンハッタン計画

 
 丸の内が大きく変わる基点となったのは、「丸の内・マンハッタン計画」と呼ばれる「丸の内再開発計画」(1988年)である。丸の内の容積率を2,000%に拡大、高さ200m、40~50階建の超高層ビルを数十棟建てるという、いかにもバブリーな提案は、新都庁舎移転(1990年竣工)に象徴される新宿副都心への東京の重心の移動、さらに世界都市博覧会(1996年開催中止)に象徴されるウォーターフロント開発に対抗するものと思われた。バブル崩壊とともに挫折したかに思われたこの「丸の内・マンハッタン計画」は、脈々と生き続ける。「マンハッタン計画」というのは,日本産業の中枢として、ニューヨークのマンハッタンのような国際金融センターとしたいという命名であったが、原子爆弾開発のパンドラの箱を開けた「マンハッタン計画」を想い起こさせて暗示的であった。以降、丸の内に容積率の歯止めが効かなくなるのである。
 
 「丸の内ビルディング(旧丸ビル)」(地上9階建、地下1階、1923年、桜井小太郎設計)が現在の「丸の内ビルディング」に建替えられたのは2002年である。そして、行幸通りを挟んで向かい側にあった「新丸ビル」(1952年竣工)が建替えられて現在の「新丸の内ビルディング」が竣工したのが2007年である。ドライビング・フォースとなったのは小泉内閣の都市再生政策である。「特定街区制度」さらにいわゆる「大丸有」(大手町・丸の内・有楽町地区)への「特例容積率適用区域制度」など優遇措置が取られた。東京駅の復元保存が実現したのは(2012年)、東京駅舎からの容積率移転によって緩和されたからである。東京中央郵便局(※7) (吉田哲郎(※8) 設計)の建替(KITTE丸の内、JPタワー、2012年)に際して、一部ファサード保存が行われたのも同じ流れである。
 

消えた「日本興業銀行」

 
 八重洲中央口から真直ぐ皇居へのヴィスタが拓けるのは、東京駅復元保存の最大の功績である。その奥右に、「 東京海上日動ビル」は、竣工した当時と同じように、その重厚な姿をのぞかせている。足元は心なしか寂しい。公開空地というけれど、そもそも人の流れがほとんどないのである。移転が発表されたのは3月25日、移転先となるのが7月21日にオープンした「 常盤橋タワー」である。2021 年 12 月から順次移転を開始し、2022 年 6 月までに移転先への移転を完了する予定という。すべて、大地主、三菱地所のやりくりである。「コロナ禍オフィス需要が減るにもかかわらず90%入居が決まっている」などとTVニュースが伝えたが、「東京海上日動ビル」が移転するのだから当たり前である。
 

左:常盤橋タワー 右:トーチタワー建設現場


 確か、村野藤吾が設計した日本興業銀行が仲通りに並んでいたはずだと、常盤橋に向かって歩きながら、重厚なキャンチレバーを探したけれど、ここだと思う場所にあったのは、1階にカフェやレストランが並ぶ、「丸の内発のルーフトップレストランやカラオケやダーツが楽しめる」「 丸の内テラス」である。オープンしたのは昨2020年11月5日という。唖然である。「東京海上日動ビルディング」の建替え理由に、「建築で最も大切な広場への評価も時代と共に変化しており、計画時に考えられた、太陽と緑に恵まれ、市民が自由に出入りできる、都市空間のあり方としての広場というより、もっと気さくで親しみ易い、つまりお茶が飲めておしゃべりができるカフェ的憩いの場の方が当世風で市民に受け入れ易い」ことが挙げられるのであるが、その回答が「丸の内テラス」というわけである。
 

左:丸の内テラスカフェテラス  右:丸の内テラス先端部


 「 日本興業銀行本店(みずほ銀行本店ビル)」(地上15階、高さ69m、1974年竣工)は、同級生の 千葉政継が村野森建築事務所に勤めていた縁で、竣工時に内部を見せてもらったことがあるが、 白井晟一の親和銀行シリーズに肩を並べる傑作であった。2016年10月から1年かけて解体されたというが、建築界は新国立競技場問題(2016年12月着工)でほとんど誰も問題にしなかったのではないか。文化勲章受章者の建築も形無しである。
 

左:日本興業銀行 先端部のキャンチレヴァー 右:日本興業銀行 外観(photo=Yuukokusya)


 

左:日本興業銀行 内部階段 右:日本興業銀行 先端部見上げ

 
布野修司(ふの・しゅうじ)

 
建築評論家・工学博士。1949年島根県生まれ。東京大学助手、東洋大学助教授、京都大学助教授、滋賀県立大学教授、副学長・理事。2015年より日本大学特任教授。日本建築学会賞論文賞(1991)、著作賞(20132015)、日本都市計画学会論文賞(2006)。『戦後建築論ノート』(1981)『布野修司建築論集ⅠⅡⅢ』(1998)『裸の建築家 タウンアーキテクト論序説』(2000),『曼荼羅都市』(2006)『建築少年たちの夢』(2011)『進撃の建築家たち』(2019)『スラバヤ』(2021)他。
 


 

※1:東京海上日動火災保険株式会社は東京海上日動火災保険本社ビル(東京海上ビルディング)を解体し、新たなビルを建設 (2023 年度着工、28 年度完成予定)するために、22 6 月までに 本社を移転することを発表しました。このビルが超高層ビルとして竣工したのは1974年で竣工後46年しかたっていません。
 現在の東京海上ビルディングは、 建築基準法による 31mの絶対高さ制限が容積規制へと移行し、超高層建築が可能になった時に、これからの都市空間のあり方を模索し、建築を高層化することによって太陽の光が差し込む広場を足元に確保することで、豊かで人間にやさしい都市空間を作ろうとして建てられた建築です。
 これについて、 このビルの設計者の前川国男は次のように述べています。
 「海上火災はあの敷地に1,000%の建築容積を建築するには、高層にして建ぺい率を約3分の1に押さえた方が『公益』に貢献するゆえんであるとの判断にもとづいて、あえて工費上、また、いわゆる事業採算上の利点を抑制して高層計画に踏み切ったものである」1966.12. 「再び都市美について」
 「日本の超高層は、現代都市によって破壊された自然を回復し、緑と太陽の空間を人間の手に取り戻す手段 · ・・『自然』につつまれ自、然に参加する『人 間』を確立する方途に建築物を空高く積み上げて、緑と太陽の自由な都市空間をつくり出す以外にどんな手段がありうるか」1967 .12 「超高層ビルの意味」
 前川は、都市に太陽が降り注ぐ、自由でオープンな広場を確保することがこ、れからの都市空間にとって非常に重要なことと考え、その手段として超高層ビルを考えていました。その意味を理解し、企業の社会的責任を果たし、「公益」に貢献する決断を前川と共 有した、当時の東京海上火災保険会社の経営者達の英断によって、現在のビルは建てられ、都市における超高層ビルのあるべき姿として存在しています。
 私たちは、この解体‐新ビル建設の情報を発表前に入手し、何とかこの建築が存続するよう、新ビルの設計者である三菱地所設計及び東京海上日動火災保険の管理部門の方々と話し合いましたが、物別れに終わりました。この対応は紳士的に行われ、私達も海上側が公表するまで口外しないようにとの要望を受け入れ、我々にできる、なにか良い方法はないかを検討してきました。しかし、こうした状況の中で、存続運動が非常に難しいことが徐々に分かってきました。存続運動が難しい理由は、
①建物が公共施設でなく、民間所有物であること。
②建物の利用者が東京海上とその関係者だけであり、一般市民の利用がないので、利用者からの存続への希望が出にくいこと。
③建築物の著作権は、日本では非常に評価が低く、公共建築の設計では契約書でその放棄を書かされることすらあること。
④この建築で最も大切な広場への評価も時代と共に変化しており、計画時に考えられた、太陽と緑に恵まれ、市民が自由に出入りできる、都市空間のあり方としての広場というより、もっと気さくで親しみ易い、つまりお茶が飲めておしゃべりができ るカフェ的憩いの場の方が当世風で市民に受け入れ易いこと
等です。こうした問題点を理解した上でも、なお、東京海上ビルは存続させる価値があり、この建築を失 うことは、日本の建築文化や都市景観上の 一大損失であると考え、存続のための活動を行うことにしました。
 私達にとって、東京海上ビルディングは、
①日本の超高層ビルの噂矢であり建築作品として非常に優れており、日本が持ち得た最高レベルの超高層建築であり、その作品を取り壊すことは、まさに文化に対する 冒涜であること。
② 日本の都市景観のあるべき姿を提示してお り、太陽が降 りそそぐ自由な広場と一体となって、豊かで人間にやさしい都市空間を具現しており、今後の都市景観への大  切な指標として重要であること。現在、丸の内地区の再開発で建設される、敷地をできるだけいつばい利用した上で、さらに 200メートルもの高さの超高層ビル群は、都市空間としてこれで良いのだろうか。こうした状況に警鐘を鳴らす存在であること。
③ 日本の都市計画史上の輝かしい記念碑であり、都市計画の方法とし容積制を導入したおり、その理念を正しく理解し、政治的圧力にも屈せず、広場と一体となって具現化した建築であり、今後、都市計画が現実的利益誘導や政治的圧力に屈して方向を間違えないためにも、あるべき姿を提示している道標(みちしるべ)となっていること。
だと考えています。こうした考えのもとに、存続のための運動をするためには、我々の考えが多くの方々の共感を得られるものかどうか知る必要があると考え、できるだけ多くの皆様のご意見をお聞きし、そのご意見を糧としてこれからの活動を進めていきたいと思います。
 
※2:筆者は「Mr.建築家」と評したことがある。「Mr.建築家-前川國男というラディカリズム」(『建築の前夜ー前川國男文集』(前川國男文集編集委員会編,而立書房,1996,布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー-建築の昭和-』所収)。
 
※3:元々地上61階、地下5階、高さ390m、延べ面積49万㎡の超高層ビルの計画であったが、第18回東京都都市再生分科会で、日本橋エリアの首都高速道路地下化、八重洲地区再開発による地下ネットワーク化などの措置が認められ、容積率の最高限度が従来の1760%から1860%に変更され、地上63階、地下4階、高さ390m、延べ面積544000㎡へと規模が拡大された。
 
※4:「世界貿易センタービル」「京王プラザビル」以後、「新宿住友ビル」210m、52階、1974、日建設計)「新宿三井ビル」225m、55階、1974、三井不動産、日本設計)など日本一の高さを誇る超高層建築が次々に登場したが、「サンシャイン60」240m、60階、1978、三菱地所設計、武藤耕三力学研究所)を最後にいったん途絶えた。復活するのは、平成初頭の「東京都庁第一本庁舎」243m、48階、1991、丹下健三都市建築設計研究所)「横浜ランドマークタワー」296m、70階、1993、光美諸設計、ザ・スタビンス・アソシエイツ)である。そして、それを超えたのが「あべのハルカス」である。
 
※5:公共の利用に開放した空地(公開空地)を設ければ,容積率(延床面積/敷地面積)や高さの規定などを緩和するという制度。1970年に創設され,建築基準法第59条の2に規定されている。具体的にどういう条件でどこまで緩和を認めるかは,それぞれの許可権限を持つ特定行政庁で基準を定めている。
 
※6:天皇機関説で著名な美濃部達吉の長男。東京。東京帝国大学経済学部卒業。大内兵衛に師事したマルクス主義経済学者として知られる。一九六七年より三期一二年,東京都知事を務めた。公害防止条例制定,老人医療の無料化,公営ギャンブル廃止,都電廃止,歩行者天国の実施など。『独裁制下のドイツ』『苦悩するデモクラシー』など。
 
※7:「平凡なるもの」という素晴らしいテレビ番組(富山テレビ)がつくられ,保存運動が展開されたが、日本の近代建築の傑作とされる丸の内南口に残る吉田鉄郎設計の中央郵便局は、中途半端にファサードの壁面を残して超高層ビルに建て替えられた。
 
※8:吉田鉄郎18941956)。富山県福野町の出身。東京帝国大学建築学科卒業。逓信省営繕課に勤務,官庁建築家として活躍。逓信省には一年先輩の日本分離派建築会の山田守もいた。ブルーノ・タウトは吉田の設計した東京中央郵便局を,モダニズムの傑作と讃えた。大阪中央郵便局も吉田の手になる。戦後は日本大学で教鞭をとった。『Das Japanische Wohnhaus』(1935年)『Japanesche Architektur』(1952年)『Der japanische Garten』(1957年)などドイツ語の著作でヨーロッパに知られる。

三菱ヶ原

 
 「東京海上日動ビルディング」の前身は、1918年建設の「東京海上ビルディング」である(曽根(※9) ・中條(※10)設計事務所、構造設計、 内田祥三(※11) (1885~1972)。丸の内、すなわち江戸城の御曲輪内(みくるわうち)と呼ばれた一帯には、明治以後、司法省、大審院、東京裁判所、警視庁などの官庁の他、陸軍省や騎兵隊、工兵隊の兵営、操練場、東京府立勧工場(辰ノ口勧工場)が置かれたが、その内の陸軍用地は、1890年に至って、三菱に払い下げられた。日本橋が 「三井村」と呼ばれたのに対して 「三菱ヶ原」と呼ばれた。
 
 三菱は1894年からイギリスの経済の中心地ロンドンのロンバート街(※12)をモデルとしたオフィス街の建設に着手、1914年にかけて、 J.コンドルの設計で1号から21号に及ぶ赤煉瓦造の 三菱館を建てた。1914年には東京駅が建てられ、東京海上ビルの後、m23年には丸ビルが落成する。丸の内一帯は 「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれ、日本橋に対抗する日本のビジネス街として急速に発展していくことになった。
 
 日本の近代都市計画の起源とされる 東京市区改正条例(※13) (1888)は、この一丁倫敦と呼ばれた街並みが東京の中央市区に広がっていくことを想像していた。前川國男が求められたのは、この百尺にきれいにそろったビルの景観とは異なった新たな景観の秩序である。当時モデルと考えられたのは、アメリカの大都市とりわけニューヨークで一般的に見られた、低層部は敷地を目一杯使って中央部のみ超高層とするいわゆる墓石型の超高層であった。
 
 超高層化によって公共広場(公開空地)を地上に設けるという前川國男の提案する超高層のモデルは、歴史を振り返れば、むしろ受け入れられてきたといえるのではないか。
 
 一丁倫敦の記憶もかすかに残す丸の内であり続ける選択もあったのかもしれない。しかし、容積を増やせば増やすほど利潤を得ることのできる一等地を所有する大地主である三菱地所にその選択はなかった。公開空地を設ければ,容積率は1300パーセントになる。さらに、歴史的建造物を復元保存すれば1700パーセントになる。こうして一角に歴史的建造物を残して超高層として建て変えられた建物がある。Tokyo Torchも、首都高速道路地下化、八重洲地区地下ネットワーク化などの措置を駆け引き材料として、容積率の最高限度が従来の1760%から1860%に変更された。丸の内を支配し続けるは容積率すなわち空間の高密度利用のみである。
 
 どうせそうであれば凡庸な超高層ビルなどみたくない。上海は超高層ビルが既にヴァナキュラー化している。せめて自在に踊ってほしい。ダンシング・ハイライズである。意外に面白そうなのがモスクワ・シティだ。本家マンハッタンには、にょきにょきともやしのような超高層ビルが建ち並びだしている「 東京国際フォーラム」を設計した ラファエル・ヴィニョリの「 パーク・アヴェニュー432」(426m、2015)は超スレンダーだ。 レム・コールハース(OMA)も参入するらしい(「41-47 West 57th Street」335m)。
 

(Photo=Epistola8)

 

 ※9:曽禰達蔵(1853~1937)。工部大学校造家学科卒業、辰野金吾ら第一期生四人の一人。三菱オフィス街の基礎をつくった。
 
※10:中條精一郎(1868~1936)。東京帝国大学造家学科卒業。日本郵船ビル、明治屋ビル講談社ビルなど曽禰達蔵とともに都市事務所ビルの設計によって、都市景観の創出に大きな役割を果たした。慶応技術大学図書館(1912)は重要文化財。長女は宮本百合子である。
 
※11:建築構造学。東京帝国大学建築学科卒業。安田講堂など京大キャンパス内の建築を多く手掛ける。1943年に第14代東京帝国大学総長に就任(1945年12月)、学徒出陣を命じている。
 
※12:Lombard Street。ロンドンの金融街いわゆるシティThe Cityにある英国銀行から東へ300メートルほどの通り。13世紀末にエドワードⅠ世がユダヤ系金融業者を追放した後から北イタリア、ロンバルディア商人が移住し、貿易とからめ両替・為替業を営んだことに由来する。
 
※13:市区改正とは今日でいう都市計画(あるいは都市改造事業)のことである。都市計画Town Planningという言葉もそう古いわけではない。ロバート・ホーム『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』布野修司+安藤正雄監訳アジア都市建築研究会,京都大学学術出版会,2001年)によれば,英国で最初に用いられたのは1906年であり、少し先駆けてオーストラリアで活躍した建築家J.サルマンの「都市の配置Laying out of the City」1890)が都市計画の最初の論文だという。日本では大正期に入ると都市計画という用語が一般的に用いられはじめ、1919(大正8)年に都市計画法が成立する。

|ごあいさつ

 
 2023年度4期の建築・都市時評「驟雨異論」を予定通り配信することができました。 4期を担ってくださった小野田泰明中島直人寺田真理子の三氏に厚く御礼申し上げます。ご苦労様でした。 建築・都市を巡る状況は、平穏なものではありません。 民間資本による都市再開発の乱立と暴走、建築建設資材の高騰化と慢性的な人手不足、無策なまま進行する社会の高齢化と縮小化と格差化、気候変動と「with・コロナ」そしてオーバーツーリズムの波etc、克服が容易でない大きな課題が山積状態にあり、今こそもっと建築・都市へ「ここがオカシイ」と声を上げなければなりません。批評の重要さが増している。 その上からも「驟雨異論」の役割は、貴重になります。ここから声を上げてゆきましょう。 2024年度5期では 貝島桃代難波和彦山道拓人、各氏のレビューが登場します。 乞うご期待ください。
 

2024/04/18

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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